錦帯橋の深い、深~いお話し

  • HOME »
  • 錦帯橋の深い、深~いお話し

こころの架け橋、錦帯橋

母なる川、錦川の自然と恩恵を受けて育まれた土地に400年前、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)公が城下町を創られました。face

しかし、錦川の洪水で城下に架けた橋は何度も何度も流されました。

洪水にまけない橋を架けることは岩国藩の大きな願いでした。

三代藩主の吉川広嘉公(きっかわ・ひろよし)公は家臣だけでなく、まちの発展を願った全ての領民とともに、こころをひとつにして、流されない橋を架けようとしたのです。

それが錦帯橋です。

多くの困難を乗り越えた先人の知恵と匠のわざ。
そして家臣や全ての領民の心をひとつにしてできたのがこの橋であり、心の象徴でもあるのです。

先人が残した『錦帯橋』が
あなたと あなたの町の
こころの架け橋となるよう願っております。

私たちの岩国市民は錦帯橋の世界遺産の仲間入りを目指しています。

bridge

岩国を中心に「神の島・宮島」と「歴史の島・萩」を結ぶ心の架け橋のイメージ図です。
江戸の絆橋、明治の出逢い橋、大正のふれあい橋、昭和の思い出橋、平成の幸せ橋の五橋で結ばれる

錦帯橋をめぐる五つの秘話

1.独立禅師が結んだ錦帯橋と中国の緑

dokuryou錦帯橋を創建した岩国のお殿様・吉川広嘉(きっかわ・ひろよし)公は、名医の評判が高い中国の渡来僧・独立性易(どくりゅう・しょうえき)禅師を、長崎から岩国に何度か呼び寄せ、治療を受けたことがあります。独立は中国一の景勝地「西湖」がある杭州市の出身で、「西湖遊覧誌」を所持していました。

好奇心の旺盛な広嘉公は、「ぜひ見たい」と所望され、一目見ると、書机を叩いて大喜びしたといいます。広嘉公は湖内の小さな島伝いに弓なりの石橋(その一つに『錦帯橋』の名がありました)が連なるように架けられている様子に着目し、錦川に小島を並べ、橋を架けるという妙案を思いついたのです。
錦帯橋の独創性は、広嘉公の柔軟な発想と中国人僧のもたらした知識の融合が原点でした。

2.思い切った若手起用で技術革新

岩国城下と城下町のあいだに錦川が流れています。
江戸時代は「大川」と呼ばれていました。
吉川氏が岩国に移封されて以降、この川を渡る橋が何度も架けられますが、洪水の度に流れました。当時の錦川は流量の多い暴れ川だったのです。
流れない橋を架けることは歴代のお殿様や家臣、領民の悲願でした。
しかし、尋常な手段ではかないません。「従来の工法や構造ではダメだ」と広嘉公は、若手技術者の育成と登用を考えました。
特に目をかけたのが、側大工(そばだいく)の次男・児玉九郎右衛門(こだまくろうえもん)でした。広嘉公は、この若者に諸国行脚させ、各地の橋梁を見学させます。その期待に応え、九郎右衛門は立派な架橋大工棟梁として成長し、独創的な曲線(懸垂曲線)構造を橋に採り入れました。
九郎右衛門によるグレイクスルー(技術革新)があって、錦帯橋は天下の名橋となるのです。

3.橋は城、橋は人、橋は経済

岩国藩は初代・広家公の時代に城を建造しました。
しかし、まもなく幕府が交付した「一国一城令」で城は完成からわずか7年で破却しなければなりませんでした。
周防國・岩国は、幕府や親藩に対する外様諸藩の最前線です。
城に代わって、家臣や領民の結束力の強さ、技術力の高さ、経済力の豊かさを他国に示す役割を担ったのが、錦帯橋でした。
hiroyoshiすなわち、城を失った屈辱を晴らし、安全保障上のプレゼンス(軍事的、経済的存在感)を示したのです。広嘉公は、洪水にも流れない奇想天外の橋を架けて天下に岩国の存在を高らしめ、他国に対し、易々とは攻められない国であることを目に見えるかたちで表しました。

4.驚くべき江戸時代の土木建築技術とマンパワー

DSCF0628錦帯橋の架橋工事は延宝元年(1673年)6月28日、橋台の鍬入れによって始まりました。
完成したのは同年9月30日の夜中だったと言います。
台風時期まで終わらせたいと、急ぎに急いだ結果でしたが、重機もない当時にわずか3か月で仕上げるという驚異的な短期工事でした。
錦帯橋の木造部分だけを替えた「平成の架け替え」で3年をかけた現代人が舌を巻く土木建築の技術はいかに養われたのでしょうか。
日本は昔から風水害の多い国です。
領主は、入念な治水によって領地や領民の生命、財産を守ってきました。
戦国時代には、その技術が城の攻防戦に使われ、土木巧者が戦乱の世を生き抜いていくのです。戦国時代の名称であった吉川氏は、優秀な土木建築技術集団を抱えていました。
天下が統一され、世の中が安定してくると、その技術と知識は農作地の開拓や改良に使われ、岩国藩は領内の石高を3万石から一気に6万石まで高め、財政力を蓄えます。
そうして得た財源や技術を錦帯橋創建に投じました。
それにしても、当時の日本人の肉体的能力や構造計算力、築造能力の高さは驚くばかりです。

5.広嘉公の胆力と覚悟に応えた大工たち

DSCF0630こうして完成した錦帯橋ですが、翌年に大きな悲運に見舞われます。
5月28日、梅雨の洪水で荒れ狂った川は橋台を破壊し、中央の3橋は濁流に呑まれてしまうのです。
完成からわずか8か月後のことです。
膨大な人力と資材を投じた橋があっさりと流れさるとは、どれだけ大きな落胆だったでしょう。
しかし、ここからが広嘉公の真の凄さです。
流出の悲嘆に暮れることなく、3日後に再建令を出すのです。
しかも、架橋した者達の責任を誰一人問うことなく、叱責もしていません。
大きな財政的負担が懸かることを承知で、「再び橋を架けよ」という広嘉公の胆力と覚悟に、架橋に当たる役人や大工たちは奮い立ちます。
再建に当たって、まず橋の流出原因を探り当てました。
城の石垣技術を応用して造った橋台は堅固なものでしたが、洪水で川床が掘られ、敷石がずれて崩壊につながったことがわかったのです。
地味で目立たない個所ですが、敷石こそが錦帯橋を守る生命線でした。
原因調査を含めて再建には5か月をかけましたが、以後、昭和25年(1950年)のキジア台風で流出するまで、276年の長きにわたって錦帯橋は優美な姿を保ったのです。

 

otete2

お気軽にお問い合わせください TEL 0827-43-1665 (月・火曜休み 営業時間11時20分〜14時)

PAGETOP