「花燃ゆ」と徴古館

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こんなにある幕末と岩国のかかわり

2015年のNHK大河ドラマは幕末の長州を舞台とする「花燃ゆ」。吉田松陰の妹・文を主人公に物語は進む。
舞台の中心は萩だ。

ここでは岩国と吉田松陰の関係を岩国市横山の「徴古館」でゆかりの史実を聞いた。

以下(日刊いわくに1月1日号より抜粋)
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岩国を4度訪れた松陰

松岡主事によると、松陰は安政6年(1859年)の「安政の大獄」で処刑されるまで記録で分かっているだけで岩国の地を4度踏んでいる。
徴古館所蔵の「東遊日記」(とうゆうにっき)によると、嘉永4年(1851年)3月、松陰は敬親の江戸参勤に伴い、岩国に立ち寄った。3月8日、高森(周東町)に宿泊し、9日に陸路(山陽道)、玖珂、柱野、関戸、小瀬を進み、小瀬川を渡って芸州(広島)入り。高森では岩本家に宿泊したと伝えられ、その他に「吉田松陰常宿の地」の碑がある。
安芸との国境では、中国の鄭国の王・荘公(そうこう)が対立した弟を誠実に説得せず、相争って最終的に弟を滅ぼした事を漢詩に詠んだ。松陰は宗家の毛利氏が同族である吉川氏に対して誠実に接するべきだと考えていた。
この思いが通じたか、敬親は幕末の混乱乗り切りに経幹の協力を求め、毛利氏にと吉川氏は「関ヶ原の合戦」以来のわがかまりを乗り越えて協力し、経幹の死後、敬親は吉川氏の正式な大名格昇格に尽力する。関戸には松陰の漢詩の一部を刻んだ「吉田松陰先生東遊記念碑」がある。
2度目の松陰来岩は寛永6年(1858年)、諸国遊学を許された松陰が江戸に向かう途中だった。
松陰は大島から船に乗って通津に入り、一泊後、海路、新港を経て岩国城下を訪れている。
松陰は岩国の印象について錦帯橋そばに設置されていた「藩政に対する不満があれば身分を問わず訴えなさい」と書かれた掲示板を目に「とてもすばらしい」と開放的な藩政をたたえている。領民のことを考えた施政に強い感銘を受けたようだ。
3度目の来岩は松陰が下田で密航に失敗し、萩に護送される場面だった。
「吉田虎次郎 金子重之介 護送日記」によると、安政元年(1854年)10月20日、護送中の松陰は柱野で昼食、高森の亀屋一之進宅に一泊した。その跡地に記念碑がある。
松陰が最後に岩国を訪れたのは、江戸に護送される安政6年(1859年)だった。
護送中の松陰は芸州との国境である小瀬で「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」と二度と戻れまいという心境を詠んだ。松陰は27日、29歳の若さで処刑された。

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